ヘルパーつらいしきついけど嫌いじゃない

在宅の知的障害者の日々のヘルパーとして思うこと。

2013年6月号

よくこんなこと書いたなぁ、読み返すだけでつらい、えらいぞ私。

 

「支援」の現場から離れた場所にいると、「誰でも生きているだけで凄い」だとか、「当事者に私達の世界観を押し付けちゃいけない」だとか、「入所施設ではなくて自立生活するのが当たり前」だとか、いくらだって思える。そういう話を聞いたり読んだりして、とっても心から納得がいく。その通りだと思ってる。これは嘘ではない。

 だけど実際「支援」の仕事をしてみるとそんな風に思ってばかりはいられない。

 彼女は彼女の方法でものごとを解決したい。

 全然構わない。ただしそれが私の了解出来る範囲の中に収まる限り。もしくは収まらなくても、私にも周りにも害がない限り。

 そして私にとって了解出来ない、害を及ぼす、と判断される行動を彼女が取った時。私はそれを肯定できない。彼女の存在まるごと否定したくなる。否定してしまう。

 私は当事者を理解したいようで実際は理解出来ない、理解したくないと壁を作っている。身も蓋もない言い方をすると、障害者だからってこんなの許されてたまるか、ぐらいは思ってる。

 だけど、おおらかな顔をして当事者とのやり取りを楽しんでいる自分も嘘じゃない。「今日はこんなことがあったんです」と笑って報告する自分も嘘じゃない。

 同時に、自分の理解の範疇を超える行動を取られて、当事者にキレてる自分も嘘じゃない。意地悪する自分も嘘じゃない。当事者の存在まるごと否定している自分も嘘じゃない。

 「あの対応は良くなかったなぁ」と反省する自分も嘘じゃない。そして「無理無理、あれは仕方ない」と開き直る自分も嘘じゃない。

 私にとってはどれもこれも嘘じゃない。だけど、人に話すときは意地の悪い私はいなかったかのように嘘をつく。人に話して否定される前に自分で否定する。自分に否定された意地の悪い私は結局は何も変わらないまま放置される。私は成長しない。いつか観念的ではなく実感を持って何の疑いもなく「誰でも生きていることが凄い」なんて言えるのだろうか。

 飲み会の時に、みんな聞いてもないのに当事者と歩んできた歴史を語りだす。すごいなぁと思う。だけどそれを聞いたところで始めから私とは人種が違ったんだとしか思えない。もっとエグい話をしてくれたら良いのに。存在が許せなかったぐらいの話をしてくれたら良いのに。それとも私の周りの人はこんなことは露にも思わないのだろうか。私だけ間違った感情を持っているのだろうか。

 

さて私は変わったのでしょうか成長したのでしょうか。

意地の悪い私は消えたはずもなく、そんな自分に慣れて諦めただけな気がします。

だけど、通信に書いたおかげで、共感してくれる人がいることが分かり、そんな、私性格悪いなーって話も人に話せるようになった気がします。

差別をしてはいけないとか、当事者の意志を尊重すべきとか、正しいことが正しいのはそんなに言われなくても分かってるのさ。当事者を受け入れられなかった話を聞きたい。受け入れなれないけどなんとか付き合ってるよって話の方が、励みになる。私のことを話そうという気になるよ。話した方が楽になる。