ヘルパーつらいしきついけど嫌いじゃない

在宅の知的障害者の日々のヘルパーとして思うこと。

2014年5月号

4月号の原稿が見つからなかったんですが、多分手書きで、「そんなわけで私Tクラブ辞めます!」って書いたやつだと思います。その続き…

 今月の通信でMさんが書いていることにはとっても共感しました(事前にブログで拝見しました)。「すごい」おじさんとおばさんはいるけれども、背中の見える先輩はいない。じゃあ私が先頭を切って、もっと働きやすい環境にするぞーとか、当事者がもっと暮らしやすくなるように話し合うぞー、とかやるかというと、そんなことはない。これは今忙しいから手が回らないとかではなく、きっと暇でもやらない。単純に、常日頃そんなことを話し合う人がいないからだ。実際に、「ちょっとこれどうなんだろうなぁ」と思うことがあっても、日常的に会わない目上のヘルパーに向かってメールや電話でそんなことを言う気概なんてさらさら無いのだよ、私には。

 Iさん(※Tクラブ代表)によく「ここでやりたいことないの?」と聞かれるけれど、「うーん、無い」といつも言っている。本当に無いし、考えようとする気持ちも湧いてこない。これはどうしたものかと自分でも思う。単純に私のやる気の無さとか想像力の欠如とか、そんな問題なのかもしれないけれど、Tクラブで何かを考えようとする時にはいつも、Mさんの言う「重さ」が付きまとっていたという気もする。『理念に、今までの実践に、背かないふるまいをしなければならないという意識。』確かにそれは知らず知らずのうちにおもりのように私にのしかかって、思考を縛ることもあったように思う。

 

 Mさんの原稿を読んでそんなことを考えていた次の日に、Tひろば(※Tクラブの事務所兼溜まり場)の掃除をしていて「は!これかっ!」と気づいた。

 Tひろばに来たことのある人ならお分かりだろうが、ひろばは汚い。本当に汚い。一応すいいち(水曜の午後、当事者その他が集まる場)前ぐらいはと思って水曜の朝は必ず掃除をしているけど、ちょっとやそっと掃除してきれいになるものではない、長年の染みついた汚れ。

 この汚れを目の前にすると「あー…」となる。もう私の手には負えぬ。壁のヤニ汚れは大掃除で拭いても限界があったし山のようにある資料は私が見ていいのかも分からないし、何が必要なのかも分からないし、手のつけようがない。

 すいいちに来る人からは、きれいすぎない方が良いとか、ちょっと汚いぐらいの方が落ち着くとか、そんな声も聞いたりする。私もその感覚はよく分かるし、多分私がすいいちに少しお邪魔するぐらいの人だったらそういう風な感想を抱いていたと思う、別にもともと綺麗好きというわけではないし。だけれども、週3そこで働くとなるとそうも言っていられない。できるだけ綺麗なところで仕事したい、と思って掃除にとりかかろうにもどこから手を付けていいのか分からない。表面的なところはできても、手を付けられない部分はずっと手を付けられないまま。

 先日Yさん(Tクラブスタッフ)に「介助とかしてて、絶望的な気分になることある?」と聞かれて、「いや~そこまでは^^;;」と答えたけど、そうだよ、ここを掃除してるとよく絶望的な気分になるよ。もうこの汚れたちは私にはどうしようも出来ないと実感する。

 こういうことなんだなと思った、長年の重さとは。汚れに例えてしまって失礼極まりないと思うし、長年の重さ=汚れだなんて思っていないけど、そういうことなんだ。積もり積もって積もりすぎて、私には崩すことができない。いっそリフォームすれば、引っ越しすれば、と思うけれどそんなこともできないし、それはまた違うんだろうなと思う。なんとなく表面をなぞってきれいにすることしかできない。

 私にとってTクラブで働くとはそんな感じなのです。日当たりの悪い汚い部屋(+タバコ臭い+冬はめちゃめちゃ寒い)に朝から向かって、手の付けようのない汚れを前にするとけっこう絶望的な気分になるのです。

 私はTクラブを辞めてから「なんか元気になったね!」と何度か言われたのですが、本当にあのころあの部屋にいると気持ちが塞ぎこんでいくような感じでした。

仕事場として通うんだから、ある程度の綺麗さは保って欲しいなぁと思う。思い返すと、あそこは「活動拠点」って感じだな。運動的な。

今は、当事者の親として昔から活動してきた人のところにいるので、Tクラブとはまた一味違った何かがある感じがします…けど、ヘルパーさんと話す機会がちょいちょいあるから良い。私が気になったことも他の人が気になったことも、ちゃんと解決に向かっていく感じがするのは良い。