ヘルパーつらいしきついけど嫌いじゃない

在宅の知的障害者の日々のヘルパーとして思うこと。

2012年6月号

インクルーシブ教育について。

 

入所施設が人権を侵害しやすいというかまぁいろいろ管理して自由とか奪っちゃうんじゃない?っていうのはなんとなく想像しやすい。だったら地域で自分のペースで生きていく方が良いんじゃないだろうかってのもけっこうすっと理解出来る。

私が今まで薄々疑問を感じていたのは、どうして普通学級が良いのかということ。普段は「当たり前」を疑わなきゃあなんて言っているくせに、なんで地域の学校に行くことは「当たり前」なんだよ!と思っていたのだ。よく言われる「その子に合った教育を」ってそんなに間違っているのかなぁ、そんなに特別支援教育ってダメなの?

と、もやもやしていたのだけど。

そんなとき、「ワニなつノート」というブログを開いた。

ちょうど開いたときの記事に書いてあった言葉が「寄る辺なさ(helplessness)」。

《帰るべきクラス、帰るべき学校、三十人のクラスメートを失う子どもの心の状態もまた、「よるべなさ」といえる。帰るべきクラスも学校も地域にあり、友だちもそこにいるのに、そこから遠ざけられていく子どもたち、そのようにして生きられる環境を奪われた子どもたちのよるべなさ》

この「寄る辺なさ」について書かれた一連の記事があって、これを読んで初めて「分けられる子ども」側のことを考えたんです。このブログにはさらに、子どものニーズの中心にある「みんなと一緒」を手放して与えられるのが特別支援教育と書かれていて。

自分の小学生の頃を振り返ってみると。どうして小学校に行ってたのか。別に何かしたいだとか出来るようになりたいだとか考えて行ってたわけではないなぁと。「今日の図工楽しみ!」ぐらいは考えたけどそれって学校に行くという前提があってのことだ。朝の何時に誰々ちゃんと待ち合わせして学校行って、授業受けて、昼休みはみんなで遊んで、放課後は習い事に行って・・・という毎日が疑いようもない当たり前だった。理由や目的が入り込む隙なんて無かった。

そうか。学校なんてそんなものなのか。何も出来るようにならなくてもクラスの中で「そこにいるだけ」で良かったんだ。私はそんな当たり前空間からはじき出されるなんて考えたこともなかったけど、「障害児」がおかれてる現状とはそういうことなのか!とようやく少し実感を持って分かった。

と考えると、「その子に合った教育を」って親が子供を大事に想っているからこその判断なのだろうけれど、子どもからすると的外れも甚だしいなと思ったわけです。この「寄る辺なさ」というどうしようもない寂しさを感じる言葉によって私はようやく「みんなと一緒が良い」の意味がわかった気がします。

… 

 

私は、普通の学校に通ったり、卒業したりした人の介助が今でも多いのですが、なんというか、とにかくみんな逞しい感じがします…へこたれません!って感じ。

それに、小さい頃から障害を持つ人と過ごしてる方が、心の許容度が大きくなる気もして、双方良いと思うんだけどな〜